鹿児島大学FD報告書平成31年度
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34鹿児島大学FD報告書4.パネル・ディスカッション パネル・ディスカッションは、武隈教育担当理事をコーディネーターとして行われた。前半は、コーディネーターとパネリストとの間でディスカッションが行われ、後半はフロアの聴衆との質疑応答であった。以下では、特に大きな論点となった事項について取り上げる。 まず、遠隔講義システムは共同教育課程の全ての授業に耐え得るものかとの論点が示された。共同獣医学部では解剖学実習や組織実習においても活用されている。実際に学生が手を動かして行う学習活動は困難であるものの、その前提として必要な解剖の手順や顕微鏡を用いて行う病理細胞の見方など、遠隔講義システムでも可能な活動はある。教育学部においても、音楽や体育などいわゆる実技系の科目の場合、対面式でなければ困難な科目もある一方、講義形式で行われる科目については遠隔講義システムの活用が十分可能である。遠隔講義システムは全ての授業において用いる必要はなく、各科目の目的・目標に応じて判断すべきである。また、1つの授業に関しても、全て遠隔講義システムを用いて行う必要はなく、目的に応じて部分的に活用することも可能である。いずれにせよ、学生の学習効果を最大限高めるにはどのような方法が最適かを考える必要がある。 それから、本シンポジウムのテーマに立ち返り、いくつかの論点が示された。まずは、「なぜ」共同教育課程なのかである。共同獣医学部では、獣医学における専門性の多様化と高度化によって単独学部で全て担うのが困難になっている。また、医学部などでも見られるように臨床実習の拡充に対する社会的要請も強まっている。さらには、同一の専門分野においても複数の教員がいることにより、各教員の強みをより活かした教育活動が可能になる。同一分野といえどもその各教員が専門的に研究しているテーマは異なっているためである。こうしたことは教育学部に関しても同様である。例えば、社会科の教員養成に当たっては歴史学に関する教育が必要となる。歴史学といえどもその内容は極めて多岐にわたるため、1人の教員が全てをカバーするのは困難であるが、中国史とフランス史を専門とする教員がいれば東洋史と西洋史をある程度カバーすることが可能になるだろう。共同教育課程の利点はこうした面で明らかになる。 そして、「何を」共同するかについても大きな論点となった。共同教育課程はそもそも学生教育をより良い形で行うためのものであることを忘れてはならない。そのためには、教員間・学生間の交流が重要な意味を持つ。教員間でのコミュニケーションが十分でなければ、各々が目標として掲げる人材を的確に育成することは困難である。また、共同教育課程である以上、獣医学部の分野におけるコア・カリキュラムに当たる最低限の共同化は必須であるものの、それ以外の部分については各大学のカラーや強みを積極的に打ち出す必要がある。あくまで異なる大学間で構成する共同教育課程であることからしても、各々の強みを生かした人材育成は必要である。 最後に、なぜ「学部」なのかである。獣医学に関する共同教育課程の場合、共同獣医学科や学部でも学科でもない共同教育課程も存在する。しかし、学部長とは異なり、学科長などは比較的短期に交代する場合が多く、一貫した方針に基づいて運営や改革に取り組むことが難しい。また、学部長であれば学長や執行部と直接コミュニケーションをとることが可能だが、学科やそれより下位の枠組みの場合は学部長や学部教授会を経る必要があり、迅速な意思決定が困難である。教育学部の場合はそもそも学科という単位をもたず、国語や理科など多数の専攻が存在する。このため、全教育学部生が共通に履修する科目が少なくないことを考慮すれば専攻単位での共同化、つまり学部以外での共同教育課程設置は非現実的であった。なぜ「学部」なのかについては、このように分野の特性に由来する点もあるものの、迅速な意思決定の必要性等昨今の大学を取り巻く状況から必要とされる面もあるといえる。 共同教育課程を巡っては、有意義な制度である一方、共同化しなければならない事項の多さや単位数の問題など縛りも多く、新規参入が困難であると言わざるを得ない。学生の学習成果をより高いものとし、質の高い学士を社会に輩出するための手立ての1つとしての共同教育課程の開設・活用を促すためにも、制度そのものの改善が期待される。(文責:伊藤 奈賀子)

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