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専任教員ブログ

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東京オリンピック開幕に際して

 高等教育研究開発センターの出口です。
 
 新型コロナ・ウイルスの影響で延期されていた2020年の東京オリンピックが、2021年7月23日に開幕しました。これを執筆している8月3日現在も、たくさんの競技おいて熱戦が繰り広げられています。
 私は学生時代に陸上競技部に所属し短距離をやっていましたので、夏季オリンピックでの注目競技は陸上競技、注目種目は男女の100m競走と4×100mリレーということになります。残念ながら今回の東京オリンピックにおいては、男子100mに出場した3人全員が期待されながらも予選落ちとなり、準決勝に進むことはできませんでした(ちなみに女子100mは誰もオリンピック参加標準記録を突破しておらず、日本人選手は出場していません)。
 
 さて、オリンピックの開催を巡っては、様々な議論がありました。まずは開催するべきか否か、開催しない場合は延期か中止か、もし開催するのであれば観客はどうするのか、開催に伴う国内外の人の動きは感染拡大を招くのではないか…などなど。世論調査では多くの国民が現時点での開催に反対し、感染症の専門家をはじめとする多くの医療従事者も開催に懸念を表明しました。しかし、結果的にオリンピックは開催されました。
 そのプロセスを見て、少なくない国民は疑問に思ったり違和感を抱いたりしたはずです。「開催する」、「でも無観客で」、「いや少しなら観客入れても大丈夫」、「競技会場に限っては酒の販売もOKにする?」、「いやさすがにそれはまずいんじゃ…」、「あ、観客入れるというのもナシで」…。何なんだこれは? そう思った人が一定数いたのではないでしょうか。
 
 疑問や違和感の原因は、「客観的な判断基準がないこと」だったと思います。例えば、小学校の運動会でも「朝7時の時点で大雨・洪水警報が出ていたら中止」みたいな基準が設定されています。これは、開催に関する意思決定に一定の要件を課し、それが満たされるか否かで開催するかどうかを半ば自動的に決める、というものです。先ほどの要件であれば、朝6時55分に警報が解除されれば実施、7時5分に解除されたら中止、そもそも警報は出ているがそれは大雨・洪水ではなく暴風警報であれば実施、みたいなことです。
 ところが、今回のオリンピックを開催するかどうかの判断に当たって、そのような基準や要件は示されませんでした。基準なしにどうやって判断するのか、そもそも開催ありきの議論ではないか。そのような思いが少なくない人の疑問や違和感の背景にあると考えます。
 
 ここで私が敢えて「少なくない」と表現したのは、「結構な数の人が疑問も違和感も覚えてないではないか?」とも思えるからです。特に「開催すべし」と考える人は、状況次第では中止という判断につながる可能性のある基準や要件の設定に否定的であったし、「開催に反対するのは反日」などという暴論すらありました。
 そのような考えを持つ本人たちだけでなく、そのような乱暴な意見に対して大きな批判や反発が起きない状況、ひいては重要な意思決定や政策決定に客観的な基準や要件が設定されないことに疑問を抱かない心性、これらを「国民性」という言葉で断じるのは非常に危険です。なぜなら、そこには「論理的に思考した跡」がないからです。「深く考えない社会」になっていると言えます。
 
 本学だけでなく多くの大学では現在、「論理的思考力」や「科学的リテラシー」を重視した学びを展開しています。そのような学びを経験した「学士」が社会に増えていくことで、世の中は少しずつ変わる。少なくとも、国や自治体あるいは企業等のポリシー・メイキングにおいて、何の根拠も基準もないようなことが行われたら、それに対して論理的に批判する、そのような人々が増えていくことが、健全な社会を作ることにつながるのではないか。大学に身を置く者としては、そのように信じて日々の業務に励んでいます。
 
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