鹿児島大学 鹿児島大学高等教育研究開発センター

専任教員ブログ

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学習成果に対する学生自身による可視化に関する研修会を行いました

 伊藤です。

 学習成果に対する学生自身による可視化に関する研修会...長いので、以下「学習成果の可視化研修会」としますが、無事終了しました。参加いただいた皆さま、ありがとうございました。

 研修会の企画・運営を仕事にしていると、ひとつずつ"片づける""こなす"感覚に陥りそうで気をつけないといけないと思いながらの運営です。そういうときに新たな気付きや振り返りを促してくれるのは、学生であることが多々あります。
 
 今回は、午前中が学習の振り返りに関する学生向けワークショップ、午後は教員向け研修会というプログラムでした。ただ、午後の部にも一部の学生が参加してくれました。当初の計画では、午後のプログラムの一部として午前中のワークショップに関する報告を位置付け、その部分のみ参加してもらう想定でした。しかし、結局3人の学生が午後の部も最初から最後まで参加してくれました。合計5時間の長丁場に付き合ってくれた学生たちにはただただ感謝です。

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 学習成果の可視化が必要であるとされている気はするものの、では必要としているのは誰なのか、必要だとしているのは誰なのかというと、かえって何だかよくわからなくなるとも思っています。果たして学生が自身の学習成果の可視化を求めているのか、あるいは教員が教育改善のために必要だと考えているのか、はたまた学生を採用する企業等が必要だと思っているのか。考えれば考えるほど「そうなのか?」と思えてなりません。

 さらにいえば、そもそも学習成果の可視化は可能なのでしょうか。教育は、その成果がいつ現れるかを規定できない営みです。学習もまた、その成果が具現化するときや場をあらかじめ定めることができない営みといえるでしょう。そのような性質の営みについて可視化し得るものとはいったい何なのか。真摯に考えることの方が必要かつ重要なのかもしれません。  

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 今回の企画、特に午前中のワークショップでは、学生が自身の学びを振り返り、その成果の言語化を試みてもらいました。私たちにできることは、こうした振り返りの支援であり、それくらいでしかないのかもしれないと考えています。もちろん、ディプロマ・サプリメントを通しての可視化も一定程度必要だとは思います。ただ、それだけで学生のためになるか、学生の学びに繋がるかというと、必ずしもそうではないと思います。学生が自らの学びのプロセスとその成果を言語化することもまたひとつの学びの機会です。そうした機会を設けることで、学生が自ら成長することを促すというのが、教員の「仕事」なのではないかと思うのです。

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 様々な企画に参加したり、運営したりすることで新たな視点が得られる場合が多々あります。私自身もそうした企画について、また、企画に関与した自分自身について振り返ることで学んでいることも多いと再認識しました。その意味でも貴重な機会になったと思います。

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