専任教員ブログ
『研究者、生活を語る』を読みました
伊藤です。
息子の成長に伴い、出勤時以外にも少しずつ自分の時間ができてきました。そのおかげで少しずつ読書もできるようになっています。
標記の書籍については、そんな日常とも重なる部分があり、興味深かったです。ただ、自分とも重なる育児の話については「そんな感じですよね」といったところで、発見とか感動とかいったことは特にありませんでした。息子が丈夫であることのありがたみを再確認したくらいです。
その一方、医療ケア児を育てている方や介護に取り組まれている、もしくは取り組まれていた方の部分は、リアルタイムで自分の問題ではないものの、他人事と言い切れるものとも思えず、考えさせられるところが多々ありました。
私の状況としては、時に息子が体調を崩すことはあっても頻繁ではありませんし、一般的な意味でのケアはもちろん必要ですが、医療ケアが必要なわけではありません。成長に伴って明らかに手がかからなくなっていますし、睡眠が細切れで十分とれないということもありません。そんな日常を振り返ると、自分を取り巻く状況ののんきさを実感します。
ただ、それは現在たまたまそうなだけで、綱から落ちる危険性は常にあるんですよね。何か1つでも大きな変化が生じると、絶妙なバランスで成り立っている日常が崩壊する恐怖も常にあります。自分のことだけ気にしていれば良かったころとは明らかに神経を使っていると思います。
介護については、同僚の中には、親の介護のために週末飛行機で帰省している方もいますし、自分の年齢を考えても身近な問題だと思っています。きょうだいの中でも実家から最も遠くにいる身としては、果たして親に何かあったときに何ができるのだろうか、何をすべきだろうかと、時々ふと考えます。手を出すのが難しいのなら、せめて余計な口は出さずお金を出そうと思ったり、そもそも手は出せないと切って捨てていいのかと迷ったり、口を出さないのは介護方針を決めるところの話で、外部との交渉も何もかも丸投げするのは口を出さないとは違うのではないかと考えてみたり。息子の誕生によってそれまで持っていた身軽さが失われ、自分にできることを限定的に考えるようになった気がします。
10年前どころか、5年前でさえ予想していなかった日常を送りながら、日常とはそんなもの、常に良くも悪くも綱渡りと感じる毎日です。綱から落ちたとしても、案外芝生が広がっていたり、温泉だったりするような、そんなイメージが持てると良いなと思う毎日です。