専任教員ブログ
令和7年度FD・SD合同フォーラムを開催しました
伊藤です。
昨日、今年度のFD・SD合同フォーラムを開催しました。ご参加いただいた皆様に心よりお礼申し上げます。
今回は、「適切なレポート課題とは?」というテーマを掲げ、基調講演に大阪成蹊大学の成瀬尚志先生をお招きしました。成瀬先生は、『学生を思考にいざなうレポート課題』『レポート課題の再発見』(いずれもひつじ書房)などのご著書もあり、高等教育におけるライティング教育に関して非常に高い知見をお持ちです。私自身の研究上の関心もあってお話を聞いてみたいと思っており、今回のテーマを考えるに当たりお招きすることにしました。
今回のテーマは、生成AIと共存するしかない現状において真っ先に問題になるであろう、そして、既に問題が続出しているレポート課題について考える必要があるのではないかという現実認識から選び出しました。
生成AIは、プロンプトさえ出せば、何事も面倒がらずにしてくれるとても便利なものです。その進歩のスピードは極めて速く、吐き出される文章のクオリティは加速度的に上がっています。そのため、安易にレポート課題を出すと、教員は生成AIが作成し文章を読まされるだけになりかねません。そこで不適切な生成AIの使い方をした学生を責めるのは簡単ですが、そもそも安易なレポート課題を出した教員に問題はないのか、教員は教員の責任として、すべきことがあるのではないか、という疑問が今回のテーマの発端になっています。
今回、成瀬先生の基調講演と、本学法文学部のお2人の先生方の事例報告を踏まえ、最後にディスカッションを行いましたが、生成AIの出現によって問い直しを迫られているのは、実はレポート課題にとどまらず、大学教育そのものだと思います。
コロナ禍の結果として、大学の授業の多くはオンラインで代替可能ということが明らかになりました。知識伝達だけであれば、オンデマンド教材で構わないということになると、特に授業がうまい教員がオンデマンド教材を作成してそれを必要とする大学に配ればいいという極論が生み出されることになります。実際、コロナ禍では、大学に限られた話ではありませんが、そういう意見はあったと思います。
そうした状況の中、それでも学生に教室に来させるのであれば、一体その意味を教員はどこに持たせるのかを考えなければなりません。教室で授業を受けたけれど、教員が一方的に話すのをただ聴くだけだったというのであれば、学生はわざわざ登校する意味を見いだせません。まして、一方的に視聴するという行為について、学生の世代はYouTubeなどで面白く作られた動画を見ているのですから、面白くもない授業をわざわざ教室まで行って指定された時間に聴かなければならないというだけでそのモチベーションは上がらないでしょう。そういう学生の現状に対し、教員は、笑いを取りに行けということではなく、学生が関心をもって話を聴けるように、自分の頭で考えようと思えるような授業を提供し、レポート課題を出す必要があるのではないでしょうか。
いわゆるFD義務化に至る以前、教員が自分の授業を改善するというのは決して当たり前のことではなく、学生から授業に対する評価を受けることも、他の教員に授業を公開して意見をもらうことも全く当たり前ではありませんでした。今からすると隔世の感がありますが、そんな時代も確実にありました。
もしかすると今は、教員の授業への向き合い方について、それくらいのインパクトのある時代なのかもしれません。教員は改めて自分の授業を見直す必要に迫られ、課題の作り方の再考を求められています。FDが大学にとって当たり前の活動になってかなりの時間が経過し、今やその形骸化が指摘されるに至っています。そうした中、新たなテクノロジーの進化とその直前にあった世界的な感染症の流行という2つの大きな出来事は、改めて大学教育を大きく変え、FDをも変えるのかもしれないと感じています。

