専任教員ブログ
西日本短期大学の皆さまにお話させていただきました
伊藤です。
標記の件について、貴重な機会を与えていただいたことに感謝申し上げます。こうした機会があるといろいろ考えますし、考えることを通じて新たなアイデアが浮かんできたり、次にすべき仕事が明確になったりします。もちろん、自分でも日々考えることはありますが、ひとつのことについて考えていると、他のことが芋づる式に出てくることが多々あります。ですから、今回のような機会があると、結果的に取り上げたテーマとは直接関係ないことについてもアイデアを得ることができます。その点でもとてもありがたかったです。
今回のテーマは生成AI、特に生成AIの教育利用でした。私は生成AIの専門家ではないので、そもそもそんな依頼は来ないと思うのですが、その原理を話せといわれてもできません。教育利用についても、「こういうやり方が良い」という結論、正解を示せるわけでもありません。
とはいえ、「正解」という性質のものではないにしても、これまでのようなレポート課題の出し方をできなくさせる、教室で教員が専門的知識を伝達するのが大学の「授業」という認識は転換を迫られる、それくらいの影響力を生成AIは持っているということはいえます。私にしかいえないことでは決してなく、他の人にもいえることです。それでも、教育改革や教育改善を推進すべき立場にあるものとして、このインパクトを声を大にして発信することは私の仕事のうちだと思っています。
大学での学びの特徴として、正解のない問いに対する自分なりの答えを導きだし、それを根拠に基づいて主張することが挙げられます。大学では、既存の知識を疑うことが推奨され、鵜呑みにすることはむしろ望ましくないこととされます。
こうした学習行動というのは、生成AIへの向き合い方と同じなのではないかと思います。生成AIの場合、誤りが含まれているかもしれないという前提で吐き出されたものを見る必要があり、正しく疑って鵜呑みにしてはならないものです。そして、他者に対して「それは間違ってるよ!」ということは容易ではないかもしれませんが、人ではない生成AIであれば容赦なくツッコむことができるでしょう。生成AIだからこそしやすいこともあるのではないでしょうか。
個人的な研究上の関心事としてきたアカデミック・ライティングに関していえば、自他の区別を明確にするとか、参考文献を明示しなければならないとか、そこで強調されてきたことは生成AIに対峙するときとこれまた共通していると思っています。生成AIは新しいテクノロジーかもしれませんが、これまで大学教育に関する問題として論じられてきたことと、生成AIとの向き合い方には、結構重なるところが多いのではないかと感じています。
生成AIが世に表れてからそこそこの年月が経過し、「何だかわからないもの」に対する不安や抵抗感から来る反応は落ち着き、もう少し落ち着いた議論ができる状況になってきたように思います。本学でも改めて、生成AIとの付き合い方、特に教育面での扱い方を考える必要がありそうです。
当初、まだ"生成AIとは何ぞや"がわからずあたふたしていたころには、禁止するとする大学もありましたし、使うことは阻止できないけれど...という消極的な姿勢もかなり見られました。しかし、その時期はもう過ぎ、どのように望ましい使い方へと導いていくか、不適切な使い方から遠ざけ、適切な使い方をさせるにはどうしたらよいかを考えて行動する段階に来たのではないでしょうか。
まずは、自分の担当する授業の中で少しずつ試しながら、どうすれば学生は適切な生成AIの使い方/付き合い方を理解/修得してくれるかという課題に取り組んでいこうと思います。

