「香り」の正体
「香り」って、何でしょう?その正体は私達の持つ嗅覚系で検出可能な、分子量以下の揮発性分子です。ヒトではおよそ10万種類の匂い分子を知覚できると言われていますが、多様な匂い分子に対応するために、およそ400種類の嗅覚受容体(*1)を持つことが知られています。検出できる匂い分子と比較するととても少なく感じますが、通常一つの匂い分子は複数の匂い分子受容体に結合できますので、結合した匂い分子受容体の組み合わせを脳が検出することで、莫大な数の匂い分子を知覚できると考えられています。匂い分子が嗅細胞上の匂い分子受容体に結合すると、嗅細胞で神経インパルス(*2)に変換され、嗅覚情報として嗅球(嗅覚一次中枢)、嗅皮質(嗅覚二次中枢)を介して扁桃体(*3)など高次脳領域へ伝えられます。嗅覚以外の感覚が、感覚器~一次中枢~感覚視床~大脳感覚皮質~大脳高次皮質と多段階で複雑な情報処理を経てようやく感覚として知覚されるのに対し、嗅覚系は非常にシンプルな情報処理で知覚・認知され情動系へ出力される為、嗅覚系は他の感覚より情動と密接した感覚系であると考えられています。
「香り」が不安を和らげる脳内機構
アロマセラピー(*4)でよく知られる効能の一つが、心の不安を和らげる抗不安効果です。しかしながら香気「心の不安」を和らげる、その脳内機序は不明でした。私達の研究グループは、ラベンダー香気の主成分の一つであるリナロールの香気に着目し研究を進めました。マウスにリナロール香気を嗅がせると、確かに不安様行動が減少しますが、嗅覚を遮断するとこの効果が消失するため、嗅覚入力が脳内の抗不安回路を活性化することが判りました。更にリナロール香気の抗不安効果は、ベンゾジアゼピン(BDZ)阻害薬を事前投与しておくと消失する為、リナロール香気を嗅ぐことで脳内に内在性BDZが放出され抗不安効果が生じることが明らかになりました。BDZ系抗不安薬は効き目が早く強い抗不安作用を持つ一方、強い副作用(運動失調や眠気)や依存性などの問題を持っています。リナロール香気はこれらの副作用を引き起こさない新しい機序の抗不安薬の開発の基礎となることが期待されます。これらの研究成果をまとめた論文(Harada et al. 2018)は国内のみならず、The New York Times紙, The Times (London)紙などを介して世界中で広く紹介されました。
用語解説
*1 嗅覚受容体:G蛋白質結合受容体の一種。ヒトで400種、マウスでは1100種ほどの受容体が確認されている。1999年にバックとアクセルにより同定され、その功績により2004年度のノーベル生理学・医学賞が授与された。
*2 活動電位:神経インパルス。神経細胞は十分に大きな入力を受けると1ミリ秒程度持続する電気活動(活動電位)を生じ、結合する他の神経細胞へその情報を伝達する。フグ毒であるテトロドトキシンは活動電位の発生を抑制し、神経細胞間伝達を障害する。
*3 扁桃体:側頭葉内奧にあるアーモンド様構造の神経核。情動・感情の処理や記憶、ストレス応答などに重要な役割を果たす。
*4 アロマセラピー:芳香性植物の抽出物(精油)を用いた民間療法の一つ。1900年代にフランスの調香師ガットフォセにより体系化された。「芳香療法」と命名されているが、「香り」の効能は重要視されず、むしろ精油に含まれる多様な分子の薬理作用が注目される。