『クリスマス・キャロル』の翻訳
私の研究領域は幅広いのですが、大学時代から19世紀イギリスの小説家チャールズ・ディケンズについての研究を続けています。文学の面白さに目覚めたのは高校生のときで、高校時代にはとくに英語の勉強に力を入れていました。大学の英文科で尊敬できる先生に出会い、その恩師が専門に研究している作家であるディケンズを卒論のテーマに選びました。その後、大学院に進み、恩師のもとでディケンズ研究を進め、一年間イギリスに留学もしました。
英文読解の技術は、ディケンズのテキストを読むことで鍛えられました。ディケンズの小説の原文はなかなか手強いテキストだと思いますが、ネット上で読むことができますので一度挑戦してみてください。ディケンズ の小説を読んだり、訳したりするためには、英語を読む力だけではなく、ヴィクトリア朝の文化史(※1)についても知っている必要があります。例えば、watchというと今では腕時計を指しますが、ヴィクトリア朝では懐中時計です。また、暗闇でも時刻がわかるrepeaterと呼ばれる時計も存在していました。
2015年にディケンズの代表作のひとつである『クリスマス・キャロル』を翻訳・出版しました。『クリスマス・キャロル』と聞くと、児童文学のイメージがあるかもしれませんが、もともと大人向けに書かれたもので、貧困階級の「子どもを救え!」というメッセージが込められています。これまでにも多くの訳者によって翻訳されてきた名作ですが、語り口調になっていない(この作品は炉端で語られる幽霊話という枠物語(※2)の枠組みを持っています)、誤訳があるなど、私自身が百パーセント満足できる訳はありませんでした。だから自分で訳すしかなかったのです。本書では、時代背景が理解できる注釈と解説を加え、大人の読者がオーセンティック(※3)なディケンズ文学を楽しめるように工夫しました。また、ディケンズ公認のアメリカ版挿絵25点を本邦初収録しています。ありがたいことに本書は好評で、版を重ねて読まれています。
ディケンズ朗読小説傑作選
2019年には、私の編訳でディケンズ著『ドクター・マリゴールド 朗読小説傑作選』(幻戯書房)を出版しました。ディケンズは1853年(41歳のとき)、公の場で初めて自作の公開朗読をおこないました。そのとき演目として取り上げたのが、ちょうど10年前に発表した『クリスマス・キャロル』でした。以後、ディケンズは1870年に亡くなるまで、イギリスで400回、アメリカ巡業も含めると計500回近くの朗読公演をおこなっています。ディケンズの演劇好きは有名で、公開朗読をおこなう際には、何人もの人物を巧みに演じ分け、ジェスチャーを交えるなど迫真の演技を披露したということです。
朗読に際し、ディケンズは自分の作品を文字通り切り貼りして、朗読台本を作り上げました。『ドクター・マリゴールド 朗読小説傑作選』には、ディケンズの公開朗読のレパートリーのなかで最も朗読回数が多かった5編(「クリスマス・キャロル」、「バーデル対ピクウィック」、「デイヴィッド・コパフィールド」、「ひいらぎ旅館の下足番」、「ドクター・マリゴールド」)が収められています。
ディケンズの公開朗読はディケンズ文学、ひいては「文字の文化と声の文化」(※4)といった文化史、メディア論(※5)を理解するうえで鍵となる重要な活動だと考えています。収録作品の「ひいらぎ旅館の下足番」を朗読家の方に読んでいただいた音声が無料で公開されていますので(下記のリンクを参照)、ぜひ聴いてみてください。
用語解説
*1学問・芸術・文学・思想・宗教・風俗・制度など、人間の文化的活動の所産について包括的に記述した歴史。政治史・経済史などと区別していう。
*2物語の登場人物が作中で別の物語を語るという形式で展開する物語。『アラビアン・ナイト』など。
*3真正であるさま。信頼できる、典拠のある、本物の。
*4アメリカの文化史家ウォルター・オングの研究書(1982年)のタイトル。
*5情報伝達の内容よりもメディア(媒体)それ自体を研究対象とする学問。カナダのメディア理論家マーシャル・マクルーハンが創始。