物差しは一つじゃない

「文化相対主義」という言葉を聞いたことがありますか?あらゆる人間社会は、「文化」という意味の世界、価値の体系をもっており、それを明らかにするのが文化人類学です。文化は社会ごとに異なっているため、物事の善悪や価値を判断する基準(=物差し)も社会の数だけ存在します。そして、文化は多様であるだけでなく、異なる文化間に優劣はないというのが、文化相対主義の考え方です。
世界各地でフィールド調査を行う文化人類学者は、一見したところ理解不能な異文化を現地の人々の視点に立って理解し、その意味世界を自文化のコンテキストに翻訳する仕事をしています。その際、文化相対主義は基本的な姿勢となりますが、一方で、相対主義の「落とし穴」に入り込む危険性にも直面しています。
例えば、アフリカで行われてきた「女子割礼」(女性生殖器切除)の慣習について、それが豊穣性や多産に結びついた儀礼であると、現地の意味や重要性を説明することは、少女の性器の一部が非衛生的な環境で切除され、健康上の問題も生じていることを黙認することになります。しかし、割礼を女性への暴力とみなし、人権という普遍主義の物差しで批判することは、現地の人々への政治的暴力であり、ポスト植民地的支配(*)の一つの形であるといえます。
このように普遍主義と相対主義の間で「異文化」に対峙し、弱者に寄り添い考え続けること、関わり続けることを生業としています。
多様性を貫く原理を求めて

私の調査地はインド、ラージャスターン州の農村です。主な関心は、モノのやり取り、すなわち「交換」が生み出す人と人の関係についてです。文化人類学では「交換」を社会の基礎に位置付けており、構造主義という考え方では、交換に注目することで社会の基本構造(原理)を知ることが可能です。私は、インド農村で、1. 水や土地や労働力の交換(農業関係)、2. 女性や養子の交換(親族・婚姻関係)、3. 政治力や聖なる力の交換(村落祭祀)について、近代化やグローバル化による変化を明らかにしました。近年は、南西諸島やミクロネシアの島々を対象に、特にジェンダーや家族・親族構造の変化について、インドとの比較研究を行っています。
実際、フィールドワークで他者の文化や社会を理解するのは、簡単なことではありません。しかし、多様な現象の中に一つの原理をみつけたとき、相手を理解できたと感じるときの快感は言葉にできません。それが何のためになるのか?と疑問に思う人もいるでしょうが、多様性への理解と貫かれた原理の発見の積み重ねによってこそ、人間とは?文化とは?という人類社会の問いに答えることができると信じています。
用語解説
(*)植民地支配が終わった後も、先進国による途上国への政治経済的支配や影響力の行使が続いていることを、ポスト植民地的状況という。