政治に対して「責任」を問うことの意味?
みなさんも、一度は「政治家の語る責任と言う言葉は軽いよなあ」という声を耳にされたことがあるでしょう。「人権の法」(人権篇)であると同時に「政治の法」(統治機構篇)でもある憲法が、国会議員は国民から選ばれ(国民主権)、内閣は国会の信任に基づいて行動する(議院内閣制)という形で、政治と国民を「権力と責任」という一本の縦糸で繋いでいます。政治が国民に対して無責任に行われているとしたら、それはゆゆしきことでしょう。
けれど、ここでちょっとした頭の体操をしてみましょう。この場合の「国民」とは誰でしょう?憲法では、国会議員は「全国民」の代表とされています。自分に投票してくれた人以外に、投票に行けない未成年者や、場合によっては「これから生まれる・既に亡くなった国民」も「全国民」には含まれると解釈されることもあります。抽象的で、雲を掴むようなお話ですよね。「責任」という概念も、どんどん拡散していってしまいますね。問題状況の根っこは、どうやらこの辺りにありそうです。さて、それでは、「責任」を可能な限り明確化するのが「善」でしょうか。確かに、「国民主権」という原理からすれば、それが「筋」であるような気がしますね。
憲法の歴史には、匂い立つような「人間臭さ」がある。
ところが、話はそれほど「理屈」通りには行かないと、「歴史」を学ぶと気付かされます。例えば、19世紀のフランスは、「二人のナポレオン」による独裁を経験しました。彼らは、国民投票を利用し、「全ての権力を私に与えよ、責任は全て私が取る」と国民に訴えました。彼らの「冒険主義」がフランスに栄光をもたらしたのは事実でしょうが、大きな災厄も産み落とされました。二人とも最後は異国で朽ち果てましたが、「責任を取った」かは疑問です。
一人のカリスマの「権力と責任」が、議会の頭越しに国民と結合するのは、確かに危険です。しかし、「議会主義」による安全運転が一番かと言えば、そもそも、「二人のナポレオン」による独裁は、何一つ決められない「オシャベリ場としての議会」の無力に対する、時代的要請でもあったわけです。権力も責任も、集団で共有すると匿名化して雲散霧消します。一人に集中させると、見かけ上は明確化されますが、実態は単なる「全権委任=独裁」となります。話は堂々巡りです。
この堂々巡りから、「理論の冷たさ」以上に「生温かい人間臭さ」を、私は感じます。憲法の歴史から、「理屈」に加えて「センス」を、特に「矛盾の中で落とし所を探る」感性を得たいものです。