「教師に求められる専門性」を論じる難しさと危険性
「良い先生とはどのような人か」という、「教師に求められる専門性」をめぐる議論は、教育のあり方を左右する重要なテーマに位置づいています。しかし、このテーマは実は議論がとても難しいテーマでもあります。
なぜなら、教育という営みは、「ある人に有効だった教育方法が他の人にも有効だとは限らない」、「人によって理想とする教育方法が異なる」という、「不確実性」に支配されているからです。多くの人は、教育を受けた経験があります。そのため、「良い先生とは?」と問われたら、だれでも具体的に語ることができてしまいます。しかし、それが本当に良い先生や良い教育の条件であるかどうかを証明することは困難を極めます。なぜなら、その条件が当てはまる人や状況がある一方で、当てはまらない場合も現実にはあるからです。そうであるにも関わらず、残念ながら、「丁寧に面倒をみることが良い教育」「厳しく育てなければならない」「競争が必要」といった、特定の個人の経験や考えに基づいた主張が世間では多くなされています。それらの主張は一見正しいように思えるという点で、実はとても危険なことでもあるのです。
そのため、「教師に求められる専門性」は慎重に論じられる必要があり、どのように追究・明確化される必要があるのかということも含めて、教育学の様々な分野の知見を総合した議論と実証的・実践的な研究が必要とされています。
教師の成長にはどのような特徴があり、何によって支え促されるのか
教職という職業に携わっている人達はどのように成長していっているのでしょうか?また、そこで起こっている成長の中身とはどのような変容なのでしょうか?さらにいえば、それらは何によって支えられたり促されたりしているのでしょうか?これらの問いを追究することは、教員の研修のあり方や、教職を目指す人達が学ぶ教員養成のあり方などを考える際に不可欠な視点です。
教師の成長は、経験を積み重ねていけば実現するものではなく、知識や技術に熟達していく側面だけではとらえきれないことが明らかにされています。経験とともに失っていく側面があったり、教育観や授業観、子ども観、人間観などの価値観が問い直されることで、それまでに獲得してきた知識や技術を捨て、生まれ変わるような変化が起こる側面があったりするからです。
現在私は、成長を遂げることのできる教師は、「自分の教育を疑い子ども(学習者)に学ぶ」力に長けていると考えています。日々の教育実践の中で、同僚とともに、研究的な営みを通して、いかに子どもに学びながら成長していっているか、教師の成長プロセスを詳細に明らかにする研究に取り組んでいます。また、そこで教師が直面する困難や苦しみにはどのような特徴があり、それを乗り越え成長していける教師は何によって支えられているのかを明らかにすることで、教師や教師を目指している人達の成長を支え促す学びのデザインと環境の実現を目指しています。